千々に乱れし我が心

1週前、狂言に行く。この能楽堂に行くときは、割かし早い目にチケットを買う。いっちゃん前の右端、入口ドア近くが、まっ、車椅子が一番ゆったりできるスペースのようで、そこの座席、2席くらい、いつも空けてくれるので。そこが空いてるうちに買うとこと気を使う。予約して料金払い込んだら、いつも書留でチケットを送ってくる。今度から、払い込むけどチケットは送ってこんでええと言おう。送料、余計に払わなあかんから。当日までチケットで折り紙して遊ぶわけやなし、当日渡してくれたらそれでええんやから。
そんなことはどうでもええねん。行くと隣りの席に70くらいの和服姿の上品な女性。スタッフのおっちゃんと何やら話をしてる。その女性、全くの素人一般客と違うんやろね。ちょっと関係者? 伝統芸能に付き物の、扇子屋さんとかそんな感じかな、たぶん。チラッとおっちゃんの声が耳に入る。
「ハリウッドスターが来る・・・」
「えっ」と驚いたわたいの様子におっちゃんが気付き、わたいにも教えてくれた。
真後ろの席にハリウッドスターが狂言を聴きに来るのだそうだ。サインちょーだい言うたらあかんで、と。スターやから予定が変わって来えへんかもしれんけど。誰?と聞いたら、自分はハリウッドスターとしか聞いてないから誰が来るかはわからんと。
「あっ、わかった!」わたい、思わず叫ぶ。あの人、今、キャンペーンで来日してたの知ってたのよね。他にも来日してたスター、いてたかもしれんけど、狂言でしょ、狂言。外国人にとって、歌舞伎なんかに比べたらちょっとマニアックちゃうのん。それを聴きに来る粋人といえばあの人やて。
タラちゃん! ちゅうてもフグ田タラオちゃうよ。タランティーノですよ、タランティーノ! 絶対そやわ。タラちゃん、日本贔屓やから、狂言のこと知っとっても全然不思議ちゃう。なんか興味持ってそうでしょ、イメージ的に。
実はわたい、タラちゃんに手紙を書こうと思ってるのよ。ある落語家さんの新作落語を英訳して送りつけようとね。ハチャメチャバイオレンスな噺。このストーリーをタラちゃんが知ったら、絶対興味を持ってくれると確信してる。ただ知らんだけ。知ったら映画化というのも夢ではないと、そういう壮大な計画を策謀してる。
まっ、送っても99.99999・・・%読んではくれんやろけど、そうはいっても世の中、何が起こるかわからない。あの、元転球劇場の福田転球さんは、高校のとき、モンティパイソンのテリー・ギリアムに自分の将来の進路相談の手紙を書いたら、なな、なんと返事が来て、それが元で喜劇の道を歩むようになったそうだ。日本の一高校生に返事を書くテリーは凄い! そんなこともあるのだから。
そんな思いのあるタラちゃんに会えるかもしれない。どうよ、これ。どうすんのよ。こんなん、何にも言えず、何のコンタクトも取れんかってみなさい、自己嫌悪の極致よ! そやけど、何言うのよ。最低限「ファンです」くらいのことは言わなあかんでしょ。あかんたれは、それ以上のことはてんぱって、とても言うてやおまへん。「ファンです」程度でも、1ヶ月くらいは記憶の片隅に「狂言行ったときに車椅子の客がいた」と残るかしれない。こういうとき、車椅子は得なのだ。阪神梅田駅という、そうとうな人通りのとこの100円ケーキショップのおねえちゃんも、一回ケーキを買うただけで覚えてくれたもん。車椅子のもんはケーキ買わんのか?
そんなことはどうでもいい。とにかく開演時間までソワソワドキドキよ。いつ来るか、いつ来るか・・・。隣りの和服上品婦人もご同様のようで。開演10分前には席を立って、ロビーに出て辺りをキョロキョロ。それがわたいの位置から見える。非常に親近感が湧く。
開演。結局来なかった。でも、まだわからん。中入り休憩で来るかもしれない。
中入り。開演前と同じくソワソワドキドキ。隣りの婦人はといえば、お知り合いの方と談笑。諦めたのか? 年を重ねると執着心が薄れるのか。悟りを開いてるのね。
後半始まる。とうとう来なかった。壮大な計画遂行第一歩の夢は、はかなく散る。あまりの残念さに、ホッと安堵する。複雑な心理状態だ。
まっ、そんなことを言っててもしゃーないので、気持ちを切り替えて舞台に集中。83歳の妖怪豆腐小僧はかわいいかわいい。