「どやった?」の顔がいい

マイミクのHさんが、師匠の会の終演後、挨拶しに伺ったとき、こう言わはる師匠の顔が自信満々で素敵だというようなことをよく日記に書いてはるが、出待ちしていたわたいにも師匠は同じように聞いてくださり、わたいもやはりHさんと同じように感じた。

土曜月曜と続けて「回覧板」を聴かせてもらって思ったこと。「近日息子」に、よく言い間違いをして、それでも謝らない町内の者に、もう一人の者が過去に言い間違い男に対して腹の立ったことを言い並べる場面がある。その場面をちょっと彷彿させるなぁと、これは前から思てたんだけど、それよりも「宿替え」の夫婦のニュアンスを今回は強く感じた。はがれかけたベニヤ板を瞬間接着剤で修繕するも、板はすぐはがれて接着剤は何日も手についたままだった師匠と、釘一つ満足に打てない徳さんが重なって見える。師匠とおかみさんはお互い、相手のことで思っていることを言い合い、徳さんと女房は、徳さんが頼り甲斐があるかないかで一騒動、という展開の違いはあるのだけれど、やはり、口ではどう言っていてもあったかい愛情が夫婦の心にあるという点は二つの噺に共通している。

私落語の第一作「長屋の傘」にも古典の「質屋蔵」に似た場面が出てくる。松鶴師匠がなんで怒ってはるかを考えるところだ。

このように、師匠は古典のスタイルを踏襲して私落語を作るということもしてはる。

古典落語の形式を意識して私落語を作って、その中にご自分も存在する。師匠は私落語で、落語の中に入ってしまいたいのやないかと、わたいは思っている。周りの方々も引き連れて。落語の世界はそうとう居心地がいいとわたいも常から思っている。

これから何十年後、師匠がこの世からいてはらへんようになったとき、師匠のお弟子さん、孫弟子さんが師匠の私落語を高座で語り続けていてほしい。そうすれば師匠はいつまでも生き続けられる。ただ残念なことに、その頃、わたいもおらへんやろから、それを確かめられない。とはいえ、残念といっても、絶対確かめたくはない。どないやねん。師匠より1日先にごねたい。