虫の声を聞きながら思索にふけるおのこ一人

やっと、本懐遂げられましたぁ!

9月6、7日、大阪の生國魂神社で「彦八まつり」がありました。これは上方の噺家さんのファン感謝祭で、毎年行われます。ほとんどの噺家さんが顔を出さはってます。

もちろん、オイラも行ったですよー。行った早々、直行ですよ、露の五郎師匠の屋台のテント。団六さん、一銭洋食焼いてはりました。一銭洋食って知ってはります? お好み焼きのちっちゃいのんで、具は天かすやキャベツだけのん。若い方は知らんかなぁ。そういや、このメルマガ読んではる方で、若い方っておったかなぁ・・・。ん、なんだ、この突き刺すような冷たい視線は? ・・・あっ、そうそう、若干名いてはりましたぁ。(若干名があなたということで、石、ぶつけんといてね)

も、そんなことはどうでもいい、団六さん、コテ持つ手を止めて、しばし、オイラの相手をしてくれはりました。噺家の心意気みたいなことを熱っぽく語ってくれはって、もう、感激のひと時でした。一銭洋食もおいしかったです。

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9月10日の毎日新聞の投書コーナーにこんなのが載ってました。要約します。

街中で車椅子の女性がひじ掛けにバッグのひもを掛けようとしていたが、難しそうなので手伝ってあげた。女性は言語障害があって手伝ってよかったのか、おせっかいだったのかがよくわからない。自分の住んでいる地域には障害者用の団地があり、障害者をよく見かけるが、これから、こういうときはどのように対処したらいいか障害者の声が聞きたい。

これってねぇ、すごく難しい問題なんですよ。オイラはね、基本的には障害者本人がお願いするまでは見過ごしてくれてもいいと思うんですけどね、ただ、この女性の場合だったら言語障害がありますでしょ。だから、本人が声を掛けたくても掛け辛いということもあるんですよね。オイラも言語障害がありますので、そこらへんはわかります。

この女性のケースの、手伝った方がいいかどうかの判断基準をオイラの考えで言いますと。

普通、ひじ掛けにバッグのひもをかけるのって瞬時にできますでしょ。それが、手に障害があると時間がかかる。その時間が10秒、20秒だったら、まだ、そんなには本人にとって負担にはなりませんが、1分、2分とかかるとなったら、ちょっと日常生活に支障を来たします。それが元で電車に乗り遅れることもありますしね。これはあくまでもオイラの私見ですが、この動作をするのに数分かかるということは、この女性はこの動作ができないといってもいいと思うんです。

オイラの例でいうと、オイラも自分で靴下が履けるんです。ただ、履くのに要する時間が指の分かれていない普通の靴下で30分かかります。右足を履くのに左足を、左足を履くのに右足を使うので、5本指の靴下だったら、もっと早いですが。靴下を履くのに30分もかかるとなると、やはり、履くことができるとはいえないと思います。その30分を他に回したいような気にもなりますしね。

だから、この女性の場合だったら、1分経ってもできなかったら、手伝ってあげたらいいと思うんです。とはいえ、その場で1分もじっと見ていてくれなんて言える訳もないでしょ。だから難しいんです。

それに、時間がかかれば、それができるとはいえないと考えているのはオイラなんですから、この女性がどのように考えているかわからない。いくら時間がかかっても、できることは何でも自分でするという主義の人かもしれないですし。

ということで、これからどう対処すればいいかというと、そのときそのときの雰囲気で判断してもらうしかない。もし手伝ってあげて、イヤな顔で拒否されても気を悪くなさらないでほしい。私はいつも笑顔で相手と接することを心がけている。と、そのように新聞に投書しました。

あいまいな答でしょ。でも、オイラの考えではあいまいでもしようがないんですよね。この場合は相手が障害者ですが、別に障害者に限らず、人間いろいろな人がいるんですから、人との接し方もいろいろあると思うんですよ。

で、この投書コーナーなんですが、当然、字数制限がある訳でして、それが400字。上の900字ほどの文の内容を400字にまとめなくちゃならない。オイラの靴下のことを書いた部分を全部カットしても、まだ700字あります。あんまりはしょるところがありません。これは難儀な作業です。

ようやっと書けたんですが、どうもしっくり来んのです。説明不足で、どうも言いたいことがあいまいになってるんです。あいまいな答しかできないという結論がはっきり書けてたらいいんですが、その結論があいまいな書き様になってる。 i my me mine(?)

しかし、あんまり時間がないときに書いたんで「えぇい、もうええわ」とばかりに、完成度90%のまま投書したんです。

それから1週間ほどして、新聞社から電話がありました。「あそこはこれこれこういう意味なんでしょうね」という投書文の内容確認の電話です。

「あっ、はい、そうです」「わかりました。また掲載するとき、お知らせします」

言っちゃあなんですが、オイラ、けっこう掲載確率高いんですよ。今まで7回くらい送ったかな、それで3回採用されました。内容に自信があるときしか送らんからでしょうが。まっ、今回はあまり自信なかったですけどね。それでも、内容確認の電話までかかったんですからね。待ちましたよー、掲載日を。

なんぼ経っても載りません。電話もかかってきません。遅いなぁと思いつつも、それでも「ふんふん、もうすぐかな」と期待しながら待ち続けました。というのは、オイラの投書文と同じように、誰かの投書に関連する形で書かれた投書文があるんですが、そういう文の書き出しが「○日掲載された〜という文章について書きますが〜」という風なんですね。その日にちの部分が5日、7日、8日と日を追うごとに10日に近づいていたもんで。

29日の朝です。「あっ、ついに『10日掲載された文章に答えます』だ」喜びましたねぇ。待ったかいがありましたぁ。と思ったら・・・。「レレレ、オイラ、こんなん書いたかな?」 名前を見ると「○川△子 70歳」あちゃあ、これ、ちゃいますやん。

書いてる結論も違いますぅ。どういうときも、まず「何かお手伝いしましょうか」と声を掛けてくれ、という内容です。ちゅうことは、オイラのはボツ? そりゃそうでしょうねぇ、一つの質問に二つ答があったら、尋ねてる人、ウロウロしますもん。それに、オイラのあいまいな答より、声を掛けてくれという方が一般大衆ウケします。

時を同じくするように今、兵庫県が「障害のある方への声かけ運動」を始めようとしています。これは、障害者が外出時に手助けを必要としているとき、県民誰もが声を掛けて手助けを行うよう呼びかける運動です。(そのまんまやん) そして、障害者の自立を支援し、この運動をきっかけにして、困っている人に対して、県民誰もが自然に声を掛けられるようになることを目指すとあります。○川△子さんの考えといっしょですね。

これ、オイラとしてはやっぱり歓迎しないんです。障害者の自立を支援するのならば、やはり障害者の主体性を重んじなければならない。だったら、障害者本人が何かをお願いするまでは、周りが、手伝うことはないかと聞かなくてもいいと思うんです。そんなにみんなに気を使われてると思うのも、なんだか気が引けますしね。信号のところで目の見えない人に、信号が今、赤か青か教えてあげるのは例外ですが。

それにね、オイラが何かを買いにコンビニかスーパーに行ったとしますでしょ。メーカーが違うAとBがあって、陳列棚の前でどっちにしようか迷っていたとします。

そんなとき「何か取りましょうか」と誰かから声を掛けられると、オイラとしては一瞬、答に悩むんですよね。「今、どれにしようか考えてますんで、決まったら、またお願いします」とはっきり喋られたらいいですが、オイラの場合、言葉が長くなれば、オイラの言葉に慣れていない初対面の人には正確に意思が伝わる確率が低くなります。で、「ありがとう。いいです」という短い言葉で済ますことにします。

その後、どっちを買うか決まって、誰かに「すんません。あれ、取ってください」と頼むでしょ。もし、その光景をさっき声を掛けてくれた人が見ていたら、気ぃ悪くしますでしょ。私にはいらんと言っといて、あの人には取ってもぉてる、てね。だったら、初めに声を掛けてくれた人に、どっちでもいいから取ってもらおか、とか思うんです。優柔不断な悩めるオイラです。

季節は秋。これから夜もだんだん長くなります。そして、悩めるオイラの秋の夜は、また一段となが〜〜〜いのです。あぁ。