ホームで落語通のおっちゃんと

今日は文我独演会に行く。終演後、難波から梅田に、いつものように食料を買って。阪神のホームで電車を待っていると、見知らぬ一人のおっちゃん。
「文我独演会におったでしょ」 ん・・・?
おっちゃんも行ってたらしい。時間的に考えたら、立ち飲み屋で一杯だけ引っ掛けてきたんかな。としても一杯だけだから、酔ってはなかったけど。
「文我、どない? 年いっとう割りにうまないなぁ」
別に年はいってないと思うが。ほんで、うまないて!?
いやまぁ、読者の方に注だけど、この言葉をまともに取ってはいけない。このおっちゃん、そうとう落語通だと思われる。落語通だというのは、あとの言葉を聞けばわかるのだけどね。噺家さんもそうだし、落語通もそうなんだけど、みんな虚構の中で生きているというところがある。虚構の中では健やかに生きられる。と、藤本義一さんが言ってはるようだが、わたいもそう思う。ほんまにあかんと思てたら、2,500円も出して行かんでしょ。
「枝雀の悪いとこだけ似とうでしょ」「えっ」「いや、変に笑いを取ろうとするところ」
100%枝雀師匠ファンのわたいとしては「うん」とは言えない。でも、言ってる意味のニュアンスはわかる。虚構、虚構・・・。
「枝雀師匠、好きやったんでね」とわたいが言うと「いや、師匠は好きやってんけどね」とのたまう。
枝雀師匠のお弟子さんで師匠に似てる方はあまりいてはらへんと思う。吉朝師匠のお弟子さんには師匠に似てはる方、けっこういてるのに。落語ファンでは、師匠に似てない方がいいという意見の方が多いと思うが、わたいは、好きな師匠のお弟子さんには、一人くらいは師匠に似てる方がいてほしいのだ。これは、枝雀師匠がご存命のときはまだ落語会通いをしておらず、生では1度しか聴かせてもろてないからということもあるだろうが。
当の噺家さんとしては、あまり似過ぎるとオリジナリティがないと言われてしんどいやろうけど。文我さんは似てるといっても程よいさじ加減で、枝雀師匠のフレーバーがほのかに漂うという感じ。言葉の表現はどうあれ、おっちゃんは文我さんが師匠に似てると言ってくれてるんだから、それでまぁええか。
「誰が一番好き?」と聞かれたので、大きい声で「鶴瓶師匠」と答えた。