芸術の秋です

先週の土曜、谷六のからほりまちアートに行く。これは、からほりの町のいろんなところでアートが展示されているというイベントだ。町全体が美術館のようなものか。多くのアーティストの方々が出展されている。
何で行ったかというと、マイミクさんが参加されているからだ。この方、いや方々と言った方がいいか、マイミクさんお二人ともうお一方を加えて、グラフィックデザイン関係の会社を作ってはる。それと関連してっちゅうか並行して、アートの活動もなさってはる。説明はこれでいいだろうか。間違ってたらダメ出しされそうで恐いのやが。そのアートの活動の一環で、よくライブペインティングというパフォーマンスをやってはる。ライブハウスでやることが多いのかな。ギンギンのロックとかをバックにして、客の目の前で即興で絵を描く。そうとうな迫力のようだ。わたいはまだ、このライブペインティングを体験していない。この日はこれを町の公園でやるそうな。
前から観たかったので嬉しいな。喜び勇んでいそいそと。天気悪いけど。関東の方に台風が来た日だ。こっちも前日から雨が降っていた。当日も午前中は降ってたんかな。公園だから屋根がない。当然、降ったらできないのだ。朝にマイミクさんのブログを見たら、午前11時からの予定だったけど2時からにするとのこと。昼から回復するでしょ、ということらしい。確かに神戸は昼から上がったからねぇ。風はちょっときついけど。でも、嵐の中で絵を描くのが似合う容姿の人だから。またダメ出し? なんかビクビクするねん。こんなん書いたら「俺はそんなに恐いんか!」とまたまたダメ出し?
目当ての公園に着く。公園の前に机が出てあって、このイベントのスタッフの方が数名。イベント全体の案内所だ。公園内を奥の方まで見るが、知ってるお顔が見えない。ちゅうか、パフォーマンスが行われるという気配が全くない。普段の日常の公園の光景だ。「あぁ、こことちゃうのね」とそこを通り過ぎ、しばらく行くも、なんかこれ以上行ったら、からほりまちから外れるという雰囲気が漂う。「やっぱりあそこか」と引き返すも、そのときにはもう、わたいの顔に薄笑いが表れる。
公園まで戻って、スタッフのおねえさんに事の次第を確かめる。答えはほぼわかってはいたが、まぁ、そこにおねえさんがいたら、わたいの性として尋ねるのである。山があるから登るのだ。おっちゃんばっかりだったら登らない。
しかし、よくわからないようだ。ん?把握してないの?ちょっと意外。本部に電話して調べてくれた。まっ、答えはわかっていたが、せっかく調べてくれているんだから待つとしよう。薄笑いがこぼれ落ちる。
公園にゴリラ?オランウータンか?とにかく類人猿の着ぐるみが一人で現れる。効果的演出もなく普通にふらっと立ち寄ったという感じで、子供たちと戯れている。これもアートイベントのアトラクションなのか。なんだかわからん。
調べた結果が出たようだ。天候不順のため中止。そりゃそうでしょう。公園の中に画材のかけらもないんだもん。大阪では昼からも、わたいが谷六に到着するまで降ったりやんだりしてたようだ。ちょっとでも降ったら描いてる絵がわやになるから、この判断もいたし方なし。こういう場合はもう、笑うしかない。
おねえさんに「神戸から来たのに」とか言って同情を引く。「今度会ったら怒らんとあかんねぇ」とか、おねえさんは言う。そんなもん怒れまっかいな。それでなくてもビクビクしとんのに。前の日まで東京に行ってはって夜遅く帰ったようで、寝不足だとブログに書いてたから、今頃寝てるんかもしれんなぁと思った。実際はその時間、ブログを書いてはって起きてたようで、こりゃ絶対ダメ出しやなぁ。ライブペインティングは翌日もやらはるが、わたいは来れない。あぁ・・・。
あのー、ずっとビクビクしてるけど、これはわたいが勝手にびびってるだけで、ご当人はほん温厚なお方です。
せっかく来たのだから、そこら辺をブラブラ徘徊する。徘徊は得意だ。
商店街を行く。通りにたくさんのTシャツが展示されてる。参加アーティストの方々がデザインしたTシャツだ。番号が付いていて、どれが好きか投票するらしい。投票したら空くじなしのくじ引きができる。で、しました。くじを引いたら、足湯! 商店街に足湯の店があってそこで足湯ができるんだけど、ちょっとねぇ、わたいが足湯しょ思たらたいそでしょ。車椅子にお湯かかったら、車椅子止まるし。「物品の方がええでしょ」と係りのおばちゃんが言ってくれて、もう一回引いたら、バラ一輪。花屋は商店街の端っこにあるということで、おばちゃんが自転車で取りに行ってくれた。ありがたやの。程なく、おばちゃん戻る。情熱の真紅のバラ一輪。受け取って、口にくわえて商店街を闊歩。今日からわたいをホセと呼んで。(一部フィクションあり)
商店街を外れると、町並みはちょっとレトロな雰囲気もところどころに。長屋や町屋が戦災を免れて残っているということだ。好きですね、こういうの。
辺りを歩いていると、点々とアートに出会う。建物と建物の間、細い路地にもアートが。控え目なのね。うっかりしてたら見逃してしまいそう。建物の壁面に数点の絵。制作者のおねえさんが貼り絵だという。「細かいですねー」とわたい。もうちょっとらしい、気の利いたことが言えんか。また、その先の路地には、アスファルトに赤、青、黄の小石ほどの大きさのが2、30センチ前後の間隔で、いくつも雑然と置かれてる。「これ、何ですのん」 そこのおねえさんが「ガムです」「ほぇー、なんかでガムに色つけて」「初めからガムには色がついてます」 我ながらアホな会話だ。せやかてわたい、ガム噛まへんもん。しかし、今、気がついたが、わたいはおねえさんが一人で立っている路地に入っていく習性があるのか。
その先の角に食堂が。格子窓とかある、時代を感じさせる店。その格子の外側に絵や写真が展示されている。作者だろう男女お二人が、そこで足を止めた人たちにアートの説明をしてはる。どんなんかなぁとねきから観てたら、わたいにも声をかけてくれた。
「架空の公募展」ということだ。4点のアートの横に、それぞれのタイトルと作者名、解説や選考理由が書かれた短い文章が添えられている。そのどれもが架空なのだ。架空の人を作り上げ、こういう人だったらこういうアートを制作するだろうというのを作り、もっともらしい解説文を付ける。例えば、平和を祈念して芸術活動をしている作家なら、白い鳩が飛翔している絵を描くだろう。そして、その絵の横には平和を祈りながら親子丼を食べている男の写真が。その写真の解説が「日々の生活の単純な行為が世界の平和を表している」という具合。この2点を並べて展示してあるが、そういう作為的行為自体が架空。それとか、あとは、それほど深い意味を持たず制作されたオブジェを、審査員が勝手に、ああでもないこうでもないと論評する様子のパロディ。面白いね。こういうの好きです。
この「架空の公募展」を観たわたいたちが、どう感じ、どういう意見を持つかを聞くことで、制作者側、鑑賞する側も含め、アートと付き合っていく上での溝、その溝とはどういうものなのか、溝を埋めるにはどうしていけばいいのかを探りたいというようなことらしい。だから、この、観ていく人たち一人一人に声をかけるというのも、この企画の大事な一部なんだろう。興味深い試みをお二人はやってはる。
人は皆、それぞれのフィルターを通して物事を捉えている。そこで本質を見極めるには、みたいなことを伺った。創造活動というアクションを起こす方のお話は面白い。わたいも触発されながらの時間はちょっとの間だったけど、有意義なものだった。
話の内容もさることながら、初対面の方にこういう知的な話をされたのも初めてだったので、とても嬉しかった。心動かされた。車椅子に座っていて言語障害があると、子供相手のような喋り方をする人もいる。それが嫌で、以前はずっと髭を生やしていたが、それでも子供扱いする人はするようだ。そういう人とは二度と係わらんようにはするが。だから、この知的な時間は大変新鮮だった。若干、わたいの本質のアホが邪魔をして、話についていけてない節も見受けられたのが口惜しいが。
と、いろいろありまして、わたいのアートな一日は過ぎていきました。からほりまちさん、ありがとう。帰りに商店街の川魚屋で鰻を買って帰ったとさ。