喬太郎さんの枝雀師匠に似ているところ

今、わかっていることは二つ。
一つは強烈なキャラクター作り。これは説明せんでも聴いたらわかる。キャラの色、味は全然違うんだけど、強烈さはホンマ強烈なのだ。
もう一つは自分の落語をもう一人の自分が客席で聴いてはるところだ。
その日の演目はお楽しみということで決められていなかった。で、その噺の出だしはこうだ。本家の若旦那が気病で臥せっている。このままでは先は長くない。悩み事が何なのか、てったいの熊になら喋ると言うので熊が呼ばれる。恋煩いかと熊が尋ねたら、若旦那は違うと答える。ここで一言。「じゃ、崇徳院じゃねぇな」。これは熊の科白ではない。聴いてるわたいの科白なのだ。わたいだけじゃない、客席にいたみんなが、この一瞬そう思ったはずだ。それを喬太郎さんが抜群の間で代弁してくれたのだ。喬太郎さんも客席にいてはるからできることだろう。因みに、これは「擬宝珠」という聴いたことのない噺だった。爆笑、爆笑。
「お札はがし」は怪談噺で、わかるように言えば「牡丹灯篭」だ。「牡丹灯篭」は長い噺で、全体的には仇討ちの噺だ。みんなが知っている、下駄がカランコロンの話はその一部。そのみんなが知っている部分を「お札はがし」という。
新三郎の家の出入り口、窓は全部締め切って、幽霊のお露が中に入られないようにお札が貼ってある。お付きの女中、これも幽霊のお米が隣家の伴蔵の枕元に出て、お札を剥がしてほしいと頼む。それを横で寝ていた女房のお峰が見ていて、自分が横にいるのに女を引っ張り込んでと悋気する。「いや、違うんだよ。あの女は普通の女じゃねぇんだ。あの女はこれだよ」と言って、両手を自分の胸のところにやって、手先をダラッと垂らす。噺が始まってからここまで全然笑う箇所がない。怪談だから当然だ。
ここでお峰が「ピグモンかい?」。で一言。「我慢できねぇのか。牡丹灯篭だぜ」。これも喬太郎さんの科白だ。いや、やはり、聴いてるわたいらの気持ちなのだ。
噺の途中にボソッと入る、演者と客の気持ちが一体化するこういう笑いがたまらなく好きだ。わたいもこういう笑いは文章を書くときに昔から使ってる。もちろん、笑いのレベルは違うが。
「お札はがし」はテレビで聴いた。ぜひ、生で聴いてみたい。いや「牡丹灯篭」を全段聴きたい。喬太郎さんの巧みなキャラクターの演じ分けは、怪談噺=人情噺でよりいっそう活きる。