「福笑版千早振る」論

落語に「千早振る」という噺がある。娘に百人一首の中の「千早振る〜」という歌の意味を聞かれた父親が、町内の物知りに教えてもらいに行く噺だ。物知りも知らないので、ええ加減な話を即興で作って知ったかぶりをする。

この「千早振る」を林家花丸さんが2年程前、大胆に、これはもう新作か?というくらいに変えはった。新発想のクスグリを存分に入れて演じはった。周りに、別にこれ「千早振る」でなくても何でもええやんと言わしめた。それを聞いた笑福亭福笑師匠が喚起されて、すぐにご自分もアレンジしやはったという。まぁ、喚起されてかどうかは人に聞いた話だから、実際は知らないけれど。

花丸版と福笑版、どちらも画期的で、もちろん面白いのだけれど、二つには相違点がある。花丸さんは外見だけ大きく変えて、福笑師匠は内面を変えている。花丸さんは装飾品をいっぱい付けるというアレンジをしたので、いってみれば元の噺は何にでも付けられるんだけどね。福笑師匠は部分的に省略してるところはあるものの、表面の流れは変えずに、登場人物の心理状態を全く違えて演じている。

よくよく考えると福笑師匠のアレンジは破綻している。歌の意味を問われて、昔の人が詠んだ歌の意味なんかわかるわけがない。自分で好きなように解釈したらええねんて、それは無茶苦茶すぎる。「千早振る」の噺を根底から否定しているわけで。

ただ、それは師匠も重々わかってるわけで、だから省略した部分があるんだろう。わざわざ破綻させて、それを力技で笑いに持っていく、というのが師匠の魅力なんだろう。計算された豪快さ。師匠の繊細さが垣間見れる噺だ。

「千早振る」を聞いたことがない方は、オーソドックス、花丸版、福笑版、三つを聞き比べてほしい。