若人の言葉

若者言葉が氾濫している。これ、わたいはほとんどの言葉を許す。聞いたことのない、意味がわからない言葉は、それを相手に使われても、さほど問題がないと思う。

例えば・・・ちゅうても聞いたことのない言葉は例として思い浮かばないけれど、仮に「うざい」という言葉をわたいが知らないとして「うざい」を使われても「それ、どういう意味?」と相手に聞けばいいのだ。まぁ「その質問がうざいんや」と言われるだろうが。

問題なのは、その言葉本来の意味と真逆の意味で使われる場合だ。聞き手が誤解する。誤解したままの会話になる。誤解に何の疑問も持たないので、間違いを正しようがない。そんな言葉は言語として成立しないではないか。

「やばい」という言葉は具合が悪い状況を表す言葉でしょ。「やばい、遅刻する」というように。それが、いつの頃か「格好いい」とか「感激した」という場合にも使われるようになった。昨年度のラグビー大学日本一になった早稲田の豊田前主将は勝利インタビューで「やばい」を連発した。どついたろかと思った。

なぜ、感激したときに「やばい」を使うようになったかを想像すると、こうだと思う。嬉しくて感極まったら泣く。人前で泣くのはかっこ悪い。感情が揺れているのを他人に悟られたくない。だから「やばい」んだろう。

ラグビーというのはそんなもんやないやろが。ここ一番という大勝負になると、ゲーム前から泣いているプレーヤー、いっぱいいるぞ。だから、どついたろか、だ。

別にラグビーに限らず、今日びの若人は、なぜ、自分の喜怒哀楽を隠そうとするのか。無感動、無表情で、まともな人間関係は築けないだろうに。

話を本題に戻すが、好都合の状況のときに「やばい」を使うのは法律で禁止してほしいとさえ思う。「あの人、やばい」と言われて、喜んでいいのか怒っていいのか全くわからない。

「やばい」の他に真逆の意味で使われる言葉に「普通に」もある。「普通においしい」と聞けば、イメージとしては「そこそこおいしい」という風に言われたと思う。料理を作った人は、それほどでもないんかとちょっとがっかりするだろう。でも、言った方は「とってもおいしい」と言ってるのだ。これは会話か!?