二つの「文七元結」に思う

小説の映画化、また、最近めっきり増えている漫画の映画化などは、どれだけ原作から離れられるか、違った作品として作ることができるかが勝負だと思う。離れるというのは語弊があるかもしれないが、原作が持つ世界観は保ちながら、その中で作り手の主張を最大限遊ばせてくれたら、わたいは満足する。映画を作るという作業は並大抵の労力ではできず、せっかくそんな労力を費やすのであればオリジナリティのある作品を作ってほしい。

例えば、サム・ライミスパイダーマンはわたいとしてはバツだった。サム・ライミスパイダーマンの熱烈なファンらしく、それがゆえに、あまりにも原作に忠実に作り過ぎたと思った。もちろん、SFXを駆使してコミックでは到底味わえない迫力は堪能できるんだけど、それだけでは何か物足りない。まぁ、1作目しか観ていないので、次作、次々作でどう変化してるかは知らないのだけど。

その逆にアン・リーのハルクは良かった。自分の意思に反して変身してしまうハルクの哀しみがアン・リー独特のタッチで前面に出ていた。

ここまで、どこが文七元結やねん。いや、ここからです。先日、映画館で文七元結を観た。歌舞伎だ。歌舞伎の舞台をそのまま映画に撮っている。このシネマ歌舞伎は入場料2千円。ホンマの舞台を観ることを思たら、こんなに安いことはない。

文七元結は、元は落語の人情噺で、それを歌舞伎で演じている。落語と歌舞伎、さぁ、どう違うのかと興味深く観たらば、違わない。若干付け足し部分はあるにしろ、ほぼ同じ進行、展開。それがどうして、趣が全然違う。歌舞伎の方がより笑えて、落語の方がより泣ける。

落語では表現できない情景描写が歌舞伎ではできる。落語は一人の口だけで演じるので、できないこともあるのだ。同時に二人の登場人物を演じられない。当たり前だけど。説明を加えて言い表すことはできても、それは同時というニュアンスとはちょっと違うように思う。

後半大詰め部分でこんな場面がある。左官の長兵衛と女房のお兼が着ている着物を取り替えている。お兼が着物を脱いで、薄汚い半被を着ているところに、鼈甲問屋近江屋が訪れる。みっともない格好で人前に出られないので、お兼は屏風の後ろに隠れる。近江屋の用件は、使用人文七が譲り受けた五十両の返済と長兵衛の人柄を見込んでの親戚付き合いの申し出、それと長兵衛の娘お久と文七の縁談と、長兵衛夫婦にとってはいいこと尽くめ。気になって仕方がないお兼は、近江屋が喋っている最中に屏風の上から何度も首をヌッと突き出す。その度に長兵衛が慌てて女房の首を押し戻す。そしたら今度は屏風の横からヌッ。

こんなん、落語では、説明はできても表現はできない。これは一つの例だが、こういう演劇ならではの、落語にない派手な演出が散りばめられているので、笑いが倍増しているのか。人情噺とはいえ、落語の噺であるのだから、笑える要素は内包してるのだし。

今日、志ん輔師匠の文七元結を聴いた。かなり泣いた。なぜ、歌舞伎よりもより泣けるのか考えた。それは集中なんじゃないか。同時に複数の人物を演じることができないから、その短所を補うため、一人の人物を奥底まで掘り下げて集中して演じる。聴く方も意識が、その一箇所、一人物に集中する。雑念なく人の心情に触れられるところが落語の醍醐味なんだろう。

とはいえ、文七元結スパイダーマンも原作に割と忠実に脚色されてることに変わりはない。それで、この評価の違いは何だ。落語贔屓、古典芸能贔屓なんか。いや、映画も好きなんだけどなぁ、ホンマ。