談春さんの「紺屋高尾」

普通、落語は、場面、状況説明などのト書きは極力少なく、登場人物の会話だけで進行していくのを良しとする。

昨日の談春さんの「紺屋高尾」を聴かせてもらって思った。何事も例外はあるものだ。

そういや、志の輔師匠もト書きが多いなぁ。立川流の持ち味なのか。東京落語は詳しくないから、よくわからないけど。「紺屋高尾」も初めて聴いたくらいだ。「幾代餅」と同じなのね。それはさておき、ト書きが多いというのもいい味わいだ。

談春さんのト書きはサスペンスだ。いや、噺は純愛物語なんだけどね。ト書きを語ることで、情景がひしひしと聴き手に伝わってくる。伝わるというより迫ってくるといった方がいい。圧倒される。手に汗握る。

恋の行方はこれからどうなるんだろうと、聴き手の神経が集中する。いや、ストーリーは知ってるんだけどね。その、知ってるということを忘れさせてくれるほど圧倒的なのだ。

これはなんなんだろう。語り口もだけれど、談春さんの声質がいいんだよね。シリアスな空気が高座上を充満する。一触即発の気。さすが家元のお弟子さんだ。

もちろん、そんな一触即発が4、50分も続いたら、客席も息が詰まってたまらない。あっそうそう、根多だけで4、50分、枕を入れたら1時間の高座を中入り挟んで二席、前座もなくて完全に一人だけの構成の独演会も考えたら凄い。まぁ、これは昨暮れのフェスもそうだったし「志の輔らくご」もそうだし、今さら改めて言うことでもないけど。

一席のうち、95%はどこか世間を斜に構えて眺めているような登場人物たちがいる。高尾大夫に一途に恋をしているはずの久蔵でさえ「私も馬鹿じゃないんだから、本当にどうこうなる話かならない話かくらいわかっていた」と言う。これは家元のアレンジなんだろうか。まっ、とにかく、そういう斜に構えたような脱力感のある人物たちで展開するストーリーの中で、ここというところで一気に押し寄せてくるサスペンス感が、聴いている方にはこの上なく快感なのだ。

緊張の緩和というか、緩和の緊張というか・・・

あっ、それからそれから・・・「鷹を飼う」に、今年一番の引き笑いを会場に響かせてしまいました。面目至極もございません。