死ぬなっ

談春さんが叫ぶ。文七に叫ぶ。心の底からあふれ出す感情が絶叫になる。それは音声の波だけではない。感情の波がそれを最大限に増幅させている。痛いほどびしびしとこちらの胸に響いてくるその波は一体何なんだろう。

そんな緊迫感を持って聴いていたら、近江屋の番頭の言動や長兵衛夫婦のやり取りがたまらなく面白い。爆笑するのだけれど、それらの登場人物が愛おしくてしかたなくなる。

落語が終わって、談春さんが訳を話す。野暮で蛇足だと前置きして。泣きながら。

10月に大阪出身の兄弟子、文都さんが亡くなったと聞いたとき、感情が揺れた。しかし、お通夜の席で文都さんの亡骸を前にしたとき、不思議と感情が止まったと言う。周囲が泣いているのに、自分はポツリ「しょうがないや」とつぶやく。なぜ、感情が止まったのかわからない。その前後では揺れていたのに。

「自分は立川文都の『死』を自分のために生かしている」とも言ってはった。

感情が止まるというのも、動いている状態から止まるというアクションを起こすのだから、それも動いていると言えるんじゃないかとわたいは思う。そんなもんじゃないかなぁと漠然と思う。

談春さんのように、野暮でもダサくても正直に腹の底を吐露できるのは、なんてかっこいいんだろうか。こんな気持ちで落語会から帰ったことはない。感情を揺らしながら、車椅子も右に左に揺らしながらの帰り道だった。

いえね、家を出かけに、こないだは車椅子のスイッチが入らなかったでしょ、昨日は何と操縦桿がポッキリと! 金属疲労ではありましょうが、なんちゅう力だ、わたい!?

で、しゃーないから、操縦桿の根元を操って昨日は行ったのでした。スイッチが入らんことを思たら、動くだけ上等だ。でも、しんどいわぁ。ちゃんとまっすぐ進みにくいし。右へ左へフラフラの千鳥足車椅子だった。

談春さんは蛇足を付けて、わたいは蛇行して帰った。

帰ってから、文都さんのブログを読んだわ。一度、高座に触れてみたかった。